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私たちは、木を加工して、家や什器を作る。砕いて紙や薬にする。燃やして暖をとり、煮炊きに使う。このような利用は、まず木を伐るところからはじまる。太古以来、石斧がカンコンと打ち込まれてきたが、3千年ほど前に鉄の斧がデビューした。 はじめてその威力に触れた人たちは、たまげたに違いない。 この木こりの両手に握られているのも、鉄の斧である。刃が鋭く光っている、と思いきや、いや、ちょっと待てよ、服の裾の尖ったあたりのほうが切れ味がよさそうだ、という気がしてくる。 すると、ヒゲや髪や服や丸太が正体を現して、円とか三角形とか平行四辺形になる。そのとたん、絵というものに慣れた目は、どうしても木こりを見たがる。そうして、ふたたび木こりが登場し、斧の刃が光りだす。 この往復をするうちに、丸太に紛れていた木こりが堂々と立ち上がってくる。 当たり前のことだが、絵は見るものである。 絵は技法だった。伝授されるものだった。それがほころび、誰でも自由に絵が描けるようになって、解説が生まれた。 いまや美術展ではみんなイヤホンをつけて絵のまわりに佇んでいる。懇切丁寧な説明を耳の中で聞いている。なるほど、という顔をしている。 私は、その人が絵を見ているとは思わない。目の前にあるのは、名所旧跡である。 木こりが堂々と立っているのは、200万年の間、木を伐って人々の暮らしに役立ててきた自負があるからだろう。だから、腕も脚も目も頭も、どっしりとして揺るぎない。 その確かさは、漂流のような日々をおくる私たちにとって、憧れである。ひょっとしてそれは、マレーヴィチも同じだったのではないか。 もちろん、私の勝手な思い込みである。 by フジグリーン・メグ スリノキネット
by kimagure-art
| 2009-02-17 22:21
| モダンアート
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