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越し方を振り返ると、ターニングポイントのようなことがいくつかあった。 あのとき、こうしていれば…。あのとき、こうだったら…。歴史と同じく、人生にもタラレバはない、のだろう。が、そういう悟りの境地に程遠いわが身には、悔いと誇りのサンドイッチこそ人生と思えてならない。 先の見えない人間は、右に行くか左へ進むか迷って、結局ろくでもない方へ歩いてしまう-それは私だけか-のだけれども、木は空いている空間へ自在に枝を伸ばす。 左に障害物があれば右に生活圏を広げ、上に邪魔者がいれば下に可能性を求め、危険負担を軽減する。およそ生き物にとって、それは当たり前の生き方である。 さて、この「赤い木」である。幹は地際から傾き、すぐに四分五裂し、さらに野放図に枝分かれを繰り返したように見える。 思いのままに育った。けれども、それがむしろ生活とか可能性とかを追いやってしまい、無残な樹形を晒すばかりとなった。これ以上どうしようもない、そんな感じである。 若き日にある種の洗礼を受けた者にとって、己が進むべき道はただ一つであり、枝分かれなどとんでもない話なのであった。障害物や邪魔者を避けるより、むしろ敗れるほうを選ぶ。思想においてのみならず、そこに生きる意味があると思われた。 ところが、この「ただ一つ」というのが曲者なのだ。枝分かれの原因は、すべて、己こそ「ただ一つ」であるという思い込みなのである。 その挙句、この「赤い木」になった。 人は、こんな木にはもはや何の価値もないと断ずるかもしれない。早く切り倒してしまえと。見苦しいと。 確かに、お世辞にも美しいとはいえない姿である。混迷した枝ぶりには、不似合いな悔恨と痛々しい矜持とが滲んでいる。 しかし、同志よ。 それこそ、君が生きた証なのだ。 by フジグリーン・メグ スリノキネット #
by kimagure-art
| 2010-02-28 22:51
| モダンアート
森には多くの生物が棲んでいる。微生物から猛獣までひっくるめた野生の「人口密度」からすると、熱帯雨林などはラッシュアワーの新宿駅に匹敵するのではないか。 しかも、他の場所では見られない、変わった生き物が潜んでいる。 蛇使いの女も熱帯雨林の住人のようである。したがって、服などという原罪の証はまとっていない。けれども、横笛は持っている。この音色で蛇を操っているらしい。 足元では3匹が鎌首をもたげ、樹上からは大蛇が身を乗り出している。そして肩には、アクセサリーのように1匹がぶらさがっている。 従う生き物はほかにもいる。ピンク色の水鳥もなついているし、枝には護衛のような鳥がとまっている。動物ばかりではない。手前の背の高い草が光っているのは、笛の音に感応しているからだ。背後に繁る密林も、曲にあわせて揺れている。 異論を承知でいわせていただく。眼では見られないものを描くのが、絵である。では、何を描いているのか。 筆を持つ人間自身である。何を対象としようが、筆は、それを動かす自分を画布に残すのである。 その意味で、「王女マルガリータ」と「蛇使いの女」に違いはない。 だから私たちは、ベラスケスもルソーも、同じように享受できるのである。 さて、そう考えると、蛇使いの女がいるのは、実は熱帯雨林ではない。 いや、それはうすうすわかっていた。男の中には、たいていこういう女が棲んでいるのである。目をあわせてはいけないと知りつつも、しかし、その魅力には抗えない。笛の音を聞けば、もう、ふらふらとなってしまう。 だいいち、蛇の鎌首の形そのものが…。 このへんでやめておこう。 by フジグリーン・メグ スリノキネット #
by kimagure-art
| 2010-01-31 21:32
| モダンアート
私たちは冬になると体温を逃がさないように衣類を着込む。手袋や帽子やマフラーをして外出する。それでも寒ければカイロを懐にする。 あらゆる動植物のなかで、ものを身にまとって寒さをしのぐのは、たぶん冬も働かねばならない人間だけである。多くの生き物は、生命活動を休んで、じっと春の到来を待つ。 葉を落として幹と枝ばかりになった姿は、その木のありようを教えてくれる。たとえば、ポプラは上へ上へと背伸びをしようとし、ムクゲは暴れ気味に広がろうとする、そういうスピリットのようなものが、それぞれの木にある。 さて、後景に描かれた梢は、どこか行き暮れている感じである。少し怒っているようにも見える。春になって芽吹くだろうか、そんな心配さえしたくなる。 人物は、やや顎を上げ、彼方の空を見つめている。しかし、眼鏡の奥の瞳は描かれない。姿勢は意志的であるが、頬は悲しげであり、何か言いたげな唇は、しかし固く閉ざされる。 自画像は、冬の落葉樹である。美化しようと韜晦しようと、それも含めて己のありようが現出する。だから、自画像はひとつの決意でもある。 鋭角の黒い梢と蒼白な肌の対照が、それを表している。 先年、この絵との対面を果たすことができた。 絵の前で、私はしばらくの間、動くことができなかった。 作者の自負と無念に、圧倒されていた。 靉光(あいみつ)は、この自画像を描いた後、応召して海を渡り、そして再び故国の土を踏むことはなかった。 帰ってきたのは、飯盒一個だけだった。 by フジグリーン・メグ スリノキネット #
by kimagure-art
| 2009-12-30 17:05
子どもの頃、木はその辺に生えていたような気がする。今風にいえば、ナニゲに生えていた。草や虫や魚も、その辺で暮らしていた。 街や道路が整備されるにしたがって、土地にそういう余裕がなくなった。地面は境界杭や鋲で厳密に管理されるようになった。木はその辺から消えて、舗道際や公園で行儀よく並ぶ。 姿も、私たちが好ましく思えるように整えられて。 それに比べて、ここに登場する木はどうだろう。舞台からして明らかにナニゲに生えた木である。樹種は…さて、ポプラとか柳の類だろうか。 2本とも幹が途中で折れたらしい。洪水か、嵐か。いずれにしろ、時を同じくして災難に見舞われた。街路樹であれば、速やかに植え替えられるところだ。 幸い、2本は折れたところから新しい枝を競うように空へ伸ばし、見事に復活した。その甲斐あって、天才画家の目に留まることになった。 競うように、と書いたのは、自称園芸家の観点からである。しかし、自称絵描きの観点からすると、これは、寄り添うように、と書くべきであろう。 右の太い木が男、左の細い木は女である。日本の川辺であれば、メオトヤナギとか命名されているかもしれない。ね、そう見えてきたでしょう。 コローもそう見ていたと思う。だから、木の下に人間の夫婦が描かれた。夫婦、は私の勝手な解釈であるが。 「とうちゃん、そろそろ昼飯にすべえ」 「おう」 川辺の爽やかな風が夫婦の頬を撫ぜて通る。 ナニゲに生きられることの貴重さを、近頃フツーに実感している筆者である。 by フジグリーン・メグ スリノキネット #
by kimagure-art
| 2009-11-27 20:36
| メグスリノキ
朝、起床すると、まず小便をする。次に、洗面台の前に立ち、鏡に映った自分の顔と向きあう。昨日と変わりなければ、次のルーティンにとりかかる。鼻の頭にオデキでもできていないかぎり、顔を見るのは一瞬である。 私の場合は、それで十分だが、女性はもちろん、今は男でも、鏡とのにらみ合いで一日が始まる人も多かろう。 人は40歳になったら自分の顔に責任を持たねばならない。これは、リンカーンが大統領として閣僚を任命する際、推薦された人物を断った理由として語ったものらしい。つまり、そいつの顔が気に入らなかったのだ。 確かに、どうしても虫の好かない顔というのは、ある。前世で天敵だったのかもしれない。 でも、リンカーンのようにいわれたら、前世のせいにもできず、40年間の人生を呪うしかなくなる。 さて、この絵の顔はどうだろう。洞の眼は、目やにばかりであまり見えない。耳も遠いし、歯はない。筵を巻いて、手には施しを受けた果実を握り、もう顔になんぞ何の関心も払わなくなっている。 哀れである。哀れであるが、ひょうきんなところもある。口が悪そうだけれども、けっこう親切なような気もする。なかなか味があるじゃないか。 実際に、木や草でこんな顔を作ってみたくなった。 ところで、もともとリンカーンはヒゲを生やしていなかった。生やしはじめたのは大統領選挙の期間中である。対立候補に比べて貧相に見えるリンカーンに、11歳の少女がヒゲを生やすようすすめた手紙がきっかけだったという。 そのお陰で選挙に勝利したかどうかは、定かでない。 けれども、落選していたら、自分の顔に責任をもてなんていう言葉は、出てこなかったに違いない。 by フジグリーン・メグ スリノキネット #
by kimagure-art
| 2009-10-27 20:23
| メグスリノキ
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