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酒井抱一「紅白梅図屏風」



 ランキングばやりである。
 弁当の売り上げから国民の幸福度まで、さて第1位は―、なんてやっている。近頃びっくりしたのは、賃貸物件の人気穴場エリアである。1位は成増、2位が池袋ときて、なんと次に小岩があがっていた。江戸川べりに位置するいまだ商店街が健在なド下町。
 私にはきわめて馴染み深いエリアではあるが、夜の地蔵通りはデンジャラス、とだけいっておこう。

 私が日本の絵描きをランキングするとしたら、まず酒井抱一を筆頭におくであろう。いわゆる琳派のマエストロである。
 抱一は光琳を師と仰ぎ、光琳は宗達を手本とした。しかし、この3人は互いに一面識もない。なにしろ、宗達が生まれたのは16世紀、光琳は17世紀で、抱一がこの絵を描くのは幕末目前の19世紀なのである。
 こんな「派」は、世界中のいかなる業界を探しても見当たらないのではないか。小さな声でいうが、そういう意味では私も琳派である。

 梅の花芽は、夏、新しく伸びた梢に形成され、冬を越して開花する。したがって、翌春に現れるであろう姿を思い描いて剪定するわけだが、こういう大胆かつ繊細な枝ぶりにして花をつけさせるのは、並大抵の仕事ではない。
 私なんぞ、剪定バサミを持ったままこの木を前にして立ち尽くす自分のほうを思い描いてしまう。
 この絵はそんな梅を見事な筆致と空間構成で描写しながらも、さらに具象を超えた何ものかを表現しているように思えてならない。抱一の傑作はみなそうだ。
 それらの作品は、おそらく日本文化が到達したひとつの頂である。

 
 実は江戸っ子もランキング好きだった。しかも、単に順番をつけて並べるような粗野なことはしない。たとえば、当時、天竺葵という名だったゼラニウムはたくさんの品種が開発されたが、毎年、当代天竺葵番付表なるものが販売された。東の横綱は「大雪嶺」、西は…といった具合に。
 けれども、比べることが悲しいこともこの世にはある、と中島みゆきは歌う。そうわかっていながら、人は比べてしまう。

 妻を見送って三月がたつ。
 梅光院慈照妙幸大姉。親戚の住職がつけてくれた戒名である。

# by kimagure-art | 2012-05-09 22:48 | 日本の絵 

ミュンター「鳥たちの朝食」



 冬の朝、ひとつのミステリーが出来した。
 ある老夫婦の家の庭で、昨日まで咲き誇っていたプリムラの一鉢が全滅したのである。もっとも、全滅したのは花びらだけで、葉っぱは青々としたままだ。そして茎だけが何本もむなしく宙に伸びている。それがいっそう哀れをさそう。
 ガクのあたりをよく見ると、花びらの付け根が少しづつ残っている。しかも、その断面は、まるでナイフで切り取ったかように滑らかなのである。妻はこの惨状を発見して警察を呼ぼうとすると、夫が庭に出てきた。そして、すぐさま犯人を断定した。「ヨトウムシだ」

 ヨトウムシは、園芸人にとって不倶戴天の敵である。漢字で夜盗虫と書く如く、昼は土中などに潜んでいて夜になると植物に襲いかかり、花といわず葉といわず「まいうー」とたいらげる。
 ところが、これが濡れ衣であったことがすぐにわかる。翌朝には、地上1メートルほどに吊ったハンギングバスケットのプリムラも被害にあったのである。さらに、庭石の上に置いておいた鉢も。
 考えてみれば、冬にヨトウムシは活動しない。夜中に野外をのそのそしていたら凍死してしまう。鉢土の中に隠れているはずもない。
 現場の状況を整理してみよう。
1 花びらだけなくなっている。
2 黄色の花が特に狙われている。
3 犯行は、早朝の時間帯に限られている。
4 家から離れている場所に被害が集中している。
5 鉢の下に花びらの断片が残されている。
 さあ、犯人は誰だ。

「犯人はこの庭にいる」
 園芸探偵カレヌ・チャペックは、無残なプリムラを両手に持ち、周りを見渡した。
「おいらじゃない。高いところに上れないし」
 といって、ダンゴ虫が丸まった。
「わたしだったらまず葉っぱを食べるわ」
 ナメクジがレンガの隙間から弁明した。
「わかっている。犯人は、おまえらのように地べたを這いまわっている連中じゃない」
「おれでもないぜ」
 塀の陰からトラ猫がいった。チャペックは足元の小石を拾うやいなや、猫めがけて投げつけた。
「おととい来やがれ、この擬似野生野郎。てめえがこっそり芝生にくせえクソをして枯らしたことぐれえ、こちとらお見通しでぇ。償いは、あとでたっぷりしてもらうぜ」
 チャペックはさらに罵声を浴びせたあと、手をはたきながら「では、そろそろ決着をつけよう。犯人は」といって、立木の枝を指差した。
「おまえだ!」
 バサバサバサッ、と羽ばたいたのはオナガであった。
「ほほほほ、よくわかったわね。冬は食べ物が少ないから、花で飢えを紛らせてるのよ。ギェー、ギェー」
「なぜ黄色ばかりを」
「おいしかったのよー、ギェー」
と鳴きながら、オナガは棲家である親水公園に飛び立っていったのであった。

 さて、この絵の鳥たちは朝食をみつけることができたのだろうか。

 ブエナビスタは、有馬記念で有終の美を飾ることはできなかった。レース終了直後、晴れていた空は一変し、緑のターフに雪が舞った。しばらくして、雲が流れ、ふたたび空は明るくなった。
 なごり雪、か。
 6万人が帰らずに、ブエナの引退式を待っていた。

by フジグリーン・メグ
スリノキネット


# by kimagure-art | 2012-01-02 07:53 | モダンアート 

浅井忠「樹木」




 今年もヒイラギモチがたくさんの紅い実を結んだ。大きさといい色つやといい、弁当のごはんに添えられていたらカリカリ梅干しと信じて疑わない、そんな実である。棘のある濃緑の葉とよく調和して、落ち着きと華やかさをあわせもつ。
 西洋では、この仲間はクリスマスホーリーと呼ばれ、年末年始にお目出度い木として飾り付けなどに使われる。日本の風習に照らしても、正月の松や万両と節分のヒイラギを足したようなものだから、なかなかお徳用な木である。
 そこで、これをわが家にも導入することにした。

 雌雄異木なので1本ではお目出度くならないらしい。2本セットの苗を買って同じ鉢に植えた。モチノキは丈夫である。成長して実をつけた。しかも、2本とも。
 調べると、雌木でも両性花をもつ木が多く、1本でも実をつけるという。なら、雄木なんていらないじゃん。そういえば、イエス・キリストも処女懐胎で生まれたんだったっけ。なるほど、クリスマスホーリーの名を裏切らない。
 これが何年かするうち、2本の成長に大きな差がついてきた。新梢の勢いが全然違う。土壌争奪戦の結果か、日照の具合か。狭い鉢での共存共栄はむずかしいのかもしれない。

 さて、今回の絵である。草も生えていない丘陵に2本の木が肩を並べるように立っている。コナラの類だろうか。枝葉の付き方にやや不自然な感じもある。周囲が皆伐されたのに、この2本だけがなぜか残されたようにも見える。
 対、にもいろいろあるが、もっとも身近で奥深い対は、男と女だろう。カラマーゾフならずとも、人生の喜怒哀楽の重大事は、男女関係に起因するといって差し支えない。
 『モダンタイムス』のラストシーン。すべてを失った男と女が、誰もいない荒野の道を二人で歩いてゆく。チャップリンの最後の言葉は「Smile」だった。
 私はあの場面がこの絵に重なるのである。

 長年連れ添った夫婦の片方が逝くと、残った方も間もなく後を追うことが多いと聞く。反面、亭主がボケても最後まで覚えているのが女房の顔で、女房がボケてきて最初に忘れるのが亭主の顔なんだそうな。これには忘れたフリも含まれているはずである(私見)。
 ところで、ジャパンカップでブエナビスタが「絵に描いたような」雪辱を果たした。まるでこのために、敢えて1年間勝利を控えたかの如くである。
 次回、クリスマスの日の有馬記念が彼女のラストランになるだろう。いつものように涼やかな表情で中山のターフを駆け抜けるに違いない。

by フジグリーン・メグ
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# by kimagure-art | 2011-12-01 00:00 | 日本の絵 

エドガー・エンデ「闇の天使と光の天使」



 真夏の夜にぼっきりと折れたユーカリが新芽を吹いた。折れた幹の断面付近から濃い緑の小さな葉っぱが、もじゃもじゃとたくさん生えたのである。もう、芽というよりも、何か別の生き物がユーカリの体内から外に湧き出した、そんな感じである。
 今年の夏は、種から大事に育てたクリスマスローズ(ニゲラ)が、ついに一株を残して消滅したり、根の浅いツツジやヒュウガミズキが枯れたりと、恨みたくなるような酷暑であった。
 折れたのは、ひょっとしてそんな夏を乗り切りるための自衛措置だったのか。

 芽が出たのはいい。しかし、この先、どのように伸びていくのかを想像すると、ユーカリには悪いが苦笑せざるを得ない。
 おそらく、真っ直ぐな棒の上に緑色のアフロヘアをかぶせたような感じになる。ちょうど、この絵の木のように。
 枝垂れユーカリからアフロユーカリへ。ますます原形から離れてゆく庭木を、あわれとも、おかしとも思いながら、さらにどこまで遠くへ行くのだろうかと楽しむ自分も、またいるのである。

 むかし、こういう木が並ぶ中を走り回ったような記憶がある。逃げるのと追いかけるのと、どちらがスリリングだったろう。
 白い天使と青い天使は、先を争って林から抜け出ようとしているように見える。だが、たぶん外に出ることはない。大きな翼をもてあましながら木々の間を行きつ戻りつする。しかも、決して交わることなく。
 使命を果たせない天使は、無限に林間を巡りつづけるのである。

 芽吹きのよい常緑樹を造形的に剪定して動物などの姿に仕立てたものをトピアリーという。スティーブン・キングの『シャイニング』では、これが主人公の子どもに襲いかかったりする。
 アフロユーカリも、いっそのことトピアリーにしようかと思う。いや、けっして剪定に失敗したからではなく。そして、園芸仲間(そんなものはいないが)が来て、えっ、これは何の木? と尋ねたらこう答えるのである。
 君、これが、エンデの木だよ。


by フジグリーン・メグ
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# by kimagure-art | 2011-10-01 00:00 | モダンアート 

クリムト「ストックレー・フリーズ 生命の樹」



 突然、庭の木が倒れた。目通り直径10センチほど、二階建ての屋根の高さまで伸びたユーカリである。それが、地面から1メートルあたりでポッキリ、というかボッキリと幹が折れて倒れた。ほとんど風もない蒸し暑い夜中の出来事だった。虫食いの形跡もない。
 青灰色の丸葉のユーカリである。根張りが弱いのか元々ふらふらしていた。ある程度の高さで芯を止めたら、枝がひねくれたように曲がって伸び、枝垂れユーカリみたいになってしまった。さらにヤケになったようにぐいぐいと上に枝を伸ばし、手がつけられない状態におちいった。
 あげく、もうやっとられん! とばかりにボッキリとあいなった次第である。

 枝先がすべて蚊取線香のごとく渦を巻いているこの「生命の樹」は、もちろん象徴でありデザインであるから、モデルの木というものはないのだろう。しかし、あえていえばこれはツル植物である。
 草木には本来の姿形がある。それを生かしながら、かつ用途に応じた形態に導くのが、よい剪定である。枝垂れユーカリは悪しき剪定の見本であった。きっと庭木には向かない樹種なのである(ということにしておく)。
 だが、ツル植物は違う。触れるものは手当たりしだいという感じでツルを伸ばし、生存領域を拡大していく。この支柱にからませて、次はあのフェンスへ、という計画性はまったくない。

 五億年前のカンブリア大爆発で生物の種は一挙に増え、滅びるものは滅んで、その後はマイナーチェンジのみで現在に至っているらしい。人間もミミズも大腸菌も、それぞれ渦巻の先っぽにいる生き残りというわけだ。
 地球上の生命の黄金期は、白亜紀とかジュラ紀ではなかったかと思う。これまでは、恐竜の想像図といえばデカい爬虫類でしかなかったが、最新の研究によると、ティラノザウルスは背中にきれいな毛が生えており、ステゴザウルスには鮮やかな模様があったという。
 彼らに比べれば、哺乳類は小さく地味である。面白くない。異星人が地球を調査に訪れる場合は、ぜひとも白亜紀あたりに来るよう勧めたい。
 
by フジグリーン・メグ
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# by kimagure-art | 2011-09-01 00:00 | モダンアート 

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